果てなく続くかのような暗闇がそこにはあった。
ねっとりと湿った空気が頬に絡みつくように吹き抜けていく。

妖の棲み家であるその洞窟に人間が故意に立ち入る事など一度として無かった。
なのに、そこには生まれたばかりの赤子を大切そうに抱えた女が息を切らして歩いていた。
絹で仕立てられた華やかな着物を幾重も重ねた装いから貴族の若い女である事が伺える。

女はその着物の裾が汚れるのも裂けるのも厭わず産後で体力も無くしているであろうに足場の悪い暗い洞窟の中を壁を伝って這うように彷徨い歩いた。

「誰だ。」

闇の奥から人のものとは思えない低い声が威嚇するように轟いた。

「お願いがあって参りました。」

妖怪と話す事に慣れているとも思えぬのに、女は臆することなくよく通る声で答えた。

「人間の女がこのわしに何用だ。」

女は乳飲み子を包んだ布を解いて掲げた。
その赤子の耳は獣のものであった。

「どうか、この子の為に譲っていただきたいのです。あなたが持っている、火鼠の衣を！」

一瞬の沈黙の後に、妖のものが呟いた。

「犬の大将の…息子か…。」

「半妖の身でも無事に生き抜くために、鎧を纏わせたいのです。」

妖のものは答えない。

「どうか！」

女は切なる声で叫んだ。

「ただではやれん。」

「お礼は…出来るだけのことはいたします。」

「おまえの一番大切なものを貰おうか。」

「私の、一番大切なものはこの子ですから、それは出来ません。」

「では二番目…おまえの魂を貰う。」

「…この子を守れるのは私だけです！ですから、それもさし上げられません。」

「待つことにしよう。三年後に貰い受ける。」

「三年…！短すぎます！せめて、この子が一人で自分の身を守れる年になるまで…。」

「では六年だ。それ以上は待てん。」

「ろく…ねん…。」

女の瞳が迷い揺れ、腕の中で眠るあどけない宝を見つめた。

逞しい若者になるまでその成長を見守りたかったのに

子の幸せを見届けたかったのに

六年ではあまりに短い。

「衣が欲しくは無いのか？」

「…お願い…します。」

「六年後に迎えにいく。」

はらりと、女の目の前に紅い布が舞った。

「ねえ、犬夜叉の誕生日はいつなの？」

「たんじょうび？」

「あんたが生まれた日よ。」

「知らねえ。」

今日はかごめの１６回目の誕生日。
母が作ってくれた料理で家族と祝ったあと、二人はかごめの部屋でくつろいでいた。

畳の上に座っていた犬夜叉に、雑誌を抱えたかごめが詰め寄った。

「季節とか、ちょっとでも分からない？」

「何でそんなこと知りたいんだ？」

「占いをしたいの。相性とかね、分かるのよ。」

「くだらねえな。」

「くだらないって、何よ。」

「くだらねえからくだらねえって言ってんだ。」

「もう！ばか！」

かごめは部屋を飛び出して行ってしまった。

　生まれた…日…？

　おれの生まれた…日は…

かすかな記憶が、甦った。

　あれは…花が咲いていたから春だったのか…？

「ははうえー！」

命の芽吹く季節、新緑の美しい草原を母の元へ駆ける童子が一人。
まだ五つほどの童子は紅い狩衣を纏いゆたかな銀色の髪をたなびかせていた。

「これ、あげる。」

母に差し出した、小さな手に握られたそれは黄色い草花。

「まあ、きれいね…。」

放心したように遠くを見ていた母が、童子の瞳と同じお日様色の花を見て少しだけ笑った。

「あした、なにかあるの？」

童子はいつもと違う母の様子を敏感に感じていた。

「明日はね、あなたが生まれて、六年目にあたる日よ…。」

母はいとおしそうに童子を見つめながら答えた。

「ふうん…？」

「あなたが生まれた、おめでたい…日なのよ。」

童子は、よく分からないという風に、獣の耳をぴくりと動かした。

「ははうえ、もっとあそんでもいい？」

「そうね、今日は…ずっと一緒に遊びましょう。」

そう言ってようやく笑顔になった母の顔につられて、満面の笑みをたたえた童子が

その後ふたたび母の笑顔に出会うことは二度と、無かった。

　そうだ　

　おれが生まれた日は

　おふくろが逝った日と同じなんだ…

　あの次の日、急な病で倒れてあっけなく逝っちまった

　おれを置いて

　おれを…ひとりに…して

　ひとりに　―――

とんとんと軽やかに階段をかける音がして、扉が開いた。
なにやら甘い匂いのするものを乗せた皿を持ったかごめがいた。

「かごめ…、おれの生まれた日は…。」

「犬夜叉の誕生日は、あたしと同じ、今日よ！」

「えっ…。」

「ごめんね。知らないんじゃ、仕方がないわよね。」

「…。」

「決めたの。今日が、犬夜叉の生まれた日よ。一緒にお祝いしましょう。」

「…。」

犬夜叉の向かいに正座したかごめはにっこりと微笑んで、言った。

「おめでとう、犬夜叉。」

祝辞を言われた当人は、言葉の意味が分からない、という風に見開いた金色の瞳を数回しばたかせた。

そして、おずおずと尋ねた。

「おれが生まれた日は…めでてえのか？」

「そうよ！あんたが生まれたんですもの。」

笑顔のかごめから、あっさりと答えが帰ってきた。

「そう…か…。」

「お誕生日、おめでとう。」

俯いたまままだ何も飲み込めぬ、といった顔の犬夜叉にもう一度言った。

「一緒にケーキ、食べましょ。」

皿に伸ばそうとした手をすくわれて、抱きしめられると乱暴に唇を奪われた。

熱く吸い付いてなかなか放れようとしない唇と舌に、ようやく開放されると

「…もう！あたしじゃなくて、ケーキだってば。」

かごめは逞しい腕の中で頬を染めたまま少し睨んで抗議を唱えた。

「けえきって、なんだ？」

「ケーキはね、甘くて、美味しいのよ。」

「おまえのことじゃねえか。」

「あっ、犬…」